ディスカホリックによる音楽夜話

好きな音楽について駄文ではありますが、あれこれ綴って行こうかな。

自分の音楽遍歴について書いてみました。

以前から言っていた自分の音楽遍歴です。いざ、書いてみると、あのバンドを書き忘れたとか、色々と出てきました。それらは、また別の機会にでも書きますね。やはり、The Stone Rosesと出会いが大きかったことを改めて実感してしまった。

 

私の音楽人生で最初に買ったレコードが、井上陽水 ”ライブもとり道” であった。そこから音楽に目覚めて、ラジオCMでアリスの谷村新司が “モーリスもてばスーパースターも夢じゃない” の合言葉でフォークギターを手にする。Fコードを押さえるのに必死で練習していた。下手くそながらも、同級生3人でフォーク擬きのバンド・シュプレヒコールをやっていた。バンド名だけは、イケてると思っていたけどね。

 

そんなフォーク少年だった私に、友人が今アメリカで流行っているらしいぜ!と言って聴かせてくれたのが、Boston ”幻想飛行” とEaglesHotel California” でした。この2枚のアルバムを聴いて天と地がひっくり返るほどの衝撃を受けたことは今で忘れません。ロックに目覚めた私は、買ったフォークギターを売ってロックのレコードを買い始めたのでありました。元々楽器に対する才能がないのは分っていた。その時に世界一のロック・リスナーになろうと思った(笑) 音楽評論家である渋谷陽一に憧れたのも確かですが。

 

すぐに、Led ZeppelinPink Floydといった70年代王道ロックを聴いていたが、人と違うものを聴きたいという意識は常にあった。そんな中で嵌まったのが、カナダのプログレハードRush ”神々の戦い(Hemispheres)” であり、ヘビィーメタルの語源ルーツとなったBlue Öyster Cult ”暗黒の狂宴 BOCライブ(Some Enchanted Evening)” であった。人があまり知らないバンドを聴くことに優越感を感じていたかな? 今と殆ど変わらないですね。当時、まだGongには嵌まっていなかった。名前は知っていた程度でした。

 

高校を卒業してビジネス専門学校のマスコミ学科というところに進学する。特にマスコミ系に就職したいと思っていた訳でもなく、何となく面白そうだったというのが動機であった。その授業でレコード会社の営業所長による音楽ビジネス特別講義があった。講義の内容は忘れてしまったが、その方に頼んでレコード会社でアルバイトをさせて貰うことになった。授業の終ったあとに、レコード店に担当営業の方と一緒に回り、ポスター貼りや在庫の確認などのお手伝いを3ヶ月ほど行った。ここに就職したいと思ったけど、松田聖子などの新人が在籍していた人気のレコード会社でハードルが高くて無理だと言われた。一緒にレコード店を回った営業担当が東大卒と聞いて、すぐに諦めることが出来た(笑)

 

専門学校卒業後はタブロイド紙を発行する会社で広告営業として就職する。しかし、すぐに倒産してしまい、アルバイトを転々としながら生活していた。偶々、偶然にレコード会社の所長さんと出会う。自分の状況を話しすると、通信機器のメーカーでレコード事業も行っている会社があって、そこなら紹介出来るが、あとはお前次第と言われた。すぐに履歴書を渡して何とか面接までいった。〇〇さんから話を聞いていますと言われ、レコード業界は厳しい状況で、場合によっては部署替えもあることの説明を受けて、正社員として就職した。

 

営業をやりつつ雑用も行うハードな仕事でした。昼間はレコード店を回って新譜の売り込み。夕方からはラジオ番組への電話リクエストやテレビ番組への出演リクエスト葉書をアルバイトに指示。そして、夜は有線放送を回って新譜紹介。その後、歓楽街のスナックを訪問して有線リクエストをお願いする毎日。もっと派手に宣伝しないと、一体誰が聴くんだよ!といつも文句ばかり言っていたかな?もうヤクザな仕事で身も心もボロボロでした。それでヒット曲が生まれれば、まだ良かったのですが。

 

毎日音楽が流れている中で、その時に音楽が一気に嫌いになりましたね。丁度、レコードからCDへの変換時期でもあって、激動の時代でもありました。その対応に乗りきれなかったところは、淘汰されていった。自分のところもレコード事業から撤退させられたのであります。在庫処分や残務整理を半年以上行ない、併せて自分の持っていたレコードもすべて売ってしまったのです。もの凄く清々しかったのを覚えています。もう何も聴く物が無くなってしまったと仲良くなったレコード店の店員さんに言うとPat Metheny GroupとThe Durutti Columnを紹介してくれた。私の知らない世界で、これには本当に救われた感じがした。

 

その後、音楽に興味を持つことなく過ごしていました。自分にとって80年代は暗黒の時代でもあった。そんな私を再びディスカホリックにさせてしまったのが、1989年にデビューしたThe Stone Rosesであります。何の気なしに手にしたロッキングオン増井修編集長が一押ししていた。試しに聴いて嵌まってしまった。彼らの曲で好きなのは、アルバムには収録されなかったシングル曲「What the World is Waiting For」です。世界が待ち望んでいるもの、それに早く気付けよ!と歌っています。これからは俺達の時代であることを高々と宣戦布告しています。カッコイイ! これ以降、再び音楽に眼覚め、CDを買い漁ることとなる。

 

1990年から仕事の関係で新潟に住んでいた。そこで出会ったレコード店ディスクガレージが、自分にとって大きな影響を与えてくれました。名盤 “Loveless” がリリースされる前にMy Bloody Valentineの存在を知ることが出来たり、デビューしたばかりのStereolabを教えて貰ったりした。ノイズ・インダストリアルバンドNurse With Woundの存在を知ったのものStereolabとのコラボレーションが切っ掛けで、ここで知ることが出来た。オーナーの丸山さんからは創刊したばかりの音楽雑誌 “REMIX” も紹介してくれた。“REMIX” の記事でSteve HillageのテクノユニットSystem 7の特集があって、そこからGongへと繫がっていったのでした。GongおよびDaevid Allenは、このブログで多く取り上げているけど、嵌まる切っ掛けを作ったのはSteve HillageのSystem 7だったのですよ。Gongのアルバムを最初に買ったのは  “Live On TV 1990” のライブ盤でした。

 

新潟には4年しか住んでいなかったのでディスクガレージとは、そんなに深い付き合いは出来なかったが、様々な音楽を教えて貰ったと思う。なお、2010年に丸山さんが急逝されたことで、ディスクガレージは閉店したようです。

 

1994年に埼玉に戻ってからは、さらに爆買いが進むようになった。毎週末は西新宿のRough Trade 、吉祥寺のWarszawaに行くことがルーティンとなっていた。90年代後半には年間CD購入枚数が400枚を越えることもあった。1日1枚どころの話じゃないですね。今のようにYouTubeやサブスクなどの配信が無く、CDを購入しなきゃ音楽を聴くことが出来なかった時代ですから。購入しても聴かずに、段ボール箱に詰めて物置に放置しているのも数多くあります。どうにかしなくてはと思っていますが、どうにもなっていませんね。

 

この頃からライブにも頻繁に出掛けるようになった。SpiritualizedMogwaiTortoiseなどは初来日ライブを観ている。この時代は、オルタネイティブ、シューゲイザー、ポストロック、ノイズなど、Rough Trade 、Warszawaが扱っているものを中心に様々な音楽を聴いていたと思う。意外なところでは、ディスクユニオンが発行していたプログレ専門誌アークエンジェル読者でもあったので、イタリアのプログレバンドBanco Del Mutuo SoccorsoやドイツのサイケバンドGuru Guruも聴いていて、ライブも観ていました。

 

2000年代は、やはりフジロックですね。その年を象徴しているアーティストやバンドが出演していると思う。フジロックに出演するということだけで、ジャンルに関係なくCDやレコードを色々と集めていたこともあった。私は2002年より参加しており、2020年はコロナ渦で中止、2021年は国内のみのバンド、アーティスト参加だったので断念しましたが、それ以外は毎年参加して来ました。今年も正式日程が先日発表されました。もちろん、行きます。出演者発表が待ち遠しいです!

 

この10年ほどは、新作に拘る傾向がより強くなっている感じがする。ベテラン、新人に関係なく、今のこの時代に何をどう鳴らしてくれるかに興味を持っている。ルーツを辿ることで聴くことはあると思うが、今更、ノスタルジックで過去に戻ることはない。還暦過ぎたくそ爺が、どこまで新たなる音楽に興味を持ち続けていられるか、自分自身でも楽しみな部分でもあります。